登山家「花谷泰広」さん - まず、「ホームの山」を持つことを勧めます。
巻頭 インタビュー

まず、「ホームの山」を持つことを勧めます

取材/梶原光政撮影/橋本伊礼

世界的な登山家に贈られるピオレドール賞を、2013年に受賞。名だたる山々の初登攀(とうはん)にも成功してきた花谷泰広さん。その出発点が、「ホームの山」である六甲山だったと聞いて、なにやらうれしくなってしまいました。壮大な自然に寄り添って来られた方だからこそ発せられる、奥深いことばの数々に耳を傾けてください。

花谷 泰広(はなたに・やすひろ) 1976年、兵庫県神戸市生まれ。
幼いころから六甲山に登り、登山に親しむ。95年に入学した信州大学教育学部では野外教育を専攻し、同大学山岳会に入会。国内外で登山経験を積む。2007年より山岳ガイドとして活動を開始。96年、20歳でネパール・ヒマラヤのラトナチュリ峰(7035m)を初登頂して以来、頻繁にヒマラヤなどの海外登山を実践。特に記憶に残るのは、06年インドヒマラヤ・メルー中央峰(通称シャークスフィン)第2登、09年のネムジュン(7140m)西壁初登攀、同ピーク第2登。 第21回ピオレドール賞、第8回ピオレドール・アジア賞を受賞した、12年のキャシャール峰(6770m)南ピラー初登攀。15年からは若手登山家養成プロジェクト「ヒマラヤキャンプ」を開始し、若手登山者たちとヒマラヤ登山を行う。17年4月より、甲斐駒ヶ岳七丈小屋の運営を開始。八ヶ岳のふもと、山梨県北杜市をベースに活動。日本山岳ガイド協会認定山岳ガイドステージⅡ。日本プロガイド協会所属。信州大学学士山岳会所属。18年5月、「ヒマラヤキャンプ」のメンバーらとともに、パンカールヒマール(6264m)の世界登頂に成功した。
未踏のルートを登攀する「ファースト・アッセント」の魅力は、誰もが経験する「初めての山登り」にも共通すると信じている。初めて登る山、初めての雪山……。

山との出会い

最初に登った山は六甲山系だったとか。あの山系のどこで、何歳くらいのことでしたか。
具体的な山の名前は忘れましたが、物心がついたころですかね。
そのころはお父さんとご一緒に登られた?
そう、家族で。うちの両親と一緒に。そのあと、市民ハイキングです。神戸では市民登山、市民ハイキングの運動が根づいていて、それに祖父が参加していたので、小学校に入ってからはそれについて行ったりしました。
そういった幼少の頃からの登山体験が根っこにあって、初めて「登山」を意識したのが、何歳くらいのときでしょうか。それは山岳会などに入る前ですか。
それが、あまり意識したことがないんですね。
たとえば、何かに憧れて登りはじめたというようなことはありませんか?
それもないですね。そもそも、何かに憧れたということが一切ない。富士山にも登っていなかったくらいですから。
映像を見たとか、本を読んだとかもないのですか。たとえば、目標とした人とかは。
僕らの世代は、多かれ少なかれ全員が植村直己さんの影響を受けていると思います。僕も、あの方の本は全部読んでいますが、それは「山」に目覚めたあとのこと。それらを読んだから、ということではありません。
いま重宝しているのは、スマホのアプリ「ヤマップ」。なお心配な人には、登山用のGPSを奨めるという。デザインの美しさ=機能美にも、とことんこだわる。

ラトナチュリ登頂の苦い思い出

1995年に信州大学に入学されたわけですが、何を学んでいたのですか。
教育学部の野外教育専攻でした。野外でキャンプをしたり、山登りをしたりと、子どもたちと一緒にそれを教育の一環として行うのですね。たとえば、学生たちが子どもキャンプを企画して実践するとか。
大学在学中に、ネパール・ヒマラヤのラトナチュリ(標高7035m)に登頂されました。何がきっかけだったのですか?
たまたま、僕が加わっていた信州大学の山岳会にはOBの組織があって、入学した次の年、1996年にその方々が遠征の計画を立ち上げていたんですね。そこに僕が手を挙げ、「行けるなら連れて行ってください!」と参加したのです。
どうでしたか、初めての遠征時の印象は。
ラトナチュリに行ったときは、序盤から体調を崩していて苦しかったんです。こてんぱんにやられた、という感じでした。一応、頂上まで登れたことは登れましたが、それはひどいものでした。
次につながる好い印象、そういったものは登山そのものについてはなかった?
それもありますが、連れて行ってもらって、7035mの頂上まで登らせてもらってありがたかった、のひとことですね。ネパールの文化の魅力や、ヒマラヤの山々のスケールの大きさを肌で感じることができました。それが、その後のことすべてに繋がっています。

就職先は「山」

大学を卒業したあとの話を聞かせてください。
6年間かけて2001年に大学を卒業し、すぐに富士山でのバイトを始めましたね。それと並行してやっていたのが、富士山測候所の強力(ごうりき)です。それは2シーズンで終わってしまいましたけれど。
これまで、富士山には何回くらい登ったのでしょう。
おそらく、250回くらいは登ったでしょう。
卒業して、就職しようという気はなかったのでしょうか。
まったくなかったですね、結局。卒業の年、2001年の秋から冬にかけて、大きな登山計画があって、それで4か月間ネパールに行くことになっていたんです。当然就職できないし、する気もなかった。だから、そのためにどうやってお金を貯めるか、どうトレーニングをしていくかだけを考えていたんです。
それに関して、ご両親もあまり反対はしなくて、ガイドや富士山測候所の強力になった。もうプロですよね。
それをプロだと理解しないほうがいいと思います。あくまでも「仕事」であって、生活費を稼いで遠征費用を捻出する手段でした。だから、僕はその時点ではプロの登山家ではなかったのです。
資料を拝見していたら、2004年、28歳で挑んだインドのメルー中央峰(標高6250m)で事故に遭われています。どういう状況だったのですか。
去年、映画にもなったのですが、メルー中央峰はインド・ヒマラヤのひとつです。通称シャークスフィンと呼ばれている、まさに鮫のヒレのような形をした岩山。テントを吊るしたりしながら登攀していたのですが、その最中に落ちてケガしてしまったんです。それが最終的に足首の靭帯(じんたい)の断裂で動けなくなった。それでも、何とか自力で降りてきたのです。標高6,000メートルくらいのところでした。
その後、1年半にわたって山に登れなかったということですが、何をなさっていたのですか。
まずは生活費を稼がなくてはならないので、派遣社員として工場で働いていたのです。精密機械の工場で、半導体を扱うところ。1年間だけバイトしていたのが2005年で、いまから14年くらい前のことでした。工場で肉体労働をして、夕方5時に仕事が終わったら、そこからリハビリに行ってという毎日。こうして生活費を稼いでいました。
そこまでたいへんな目に遭って、また登山。そのときやめようかと考えなかったのですか。
いや、一瞬はよぎりましたね。さすがに。
甲斐駒ヶ岳への登山道入り口にある駒ヶ嶽神社にて。「七丈小屋」(090-3226-2967)との往復を日常的に繰り返す。一男一女の育児は妻、裕子さんにまかせている。
https://www.kaikoma.info/

それでも山に登る

ケガから回復して復帰するわけですが、山の魅力というのは何なのでしょう。
ほんとうに、何なのでしょうか。それは捉え方の問題で、人によってはいろいろ考えるかもしれませんね。僕についていえば、子どものときに六甲を歩いて山への意識が芽生え、その後に、それがいろんな山歩きのなかで培われてきたのです。
その意識とは、どういうものなのでしょうか。
そこはあまり考えたことがなくて、「山に登ることは生活の一部」みたいになっていて、そこには「なぜ登る?」というのはなく、意識の外の話になるのでしょうね。あまりにも、あたりまえに過ぎて。
現在のお仕事としては、何がおもなものになっているのですか?
現在は甲斐駒ヶ岳七丈小屋の運営と山岳ガイドを自社(株式会社ファーストアッセントhttp://first-ascect.net/)でマネジメントしていて、これが中心となっています。それに加えて「ヒマラヤキャンプ」という、2015年から取り組んでいる海外の山で若い人を育てるプロジェクトの運営には大きく時間を割いていることと、各種の山のイベント参加や講演で、各地を点々としています。
登山家としてのこれからの目標は何ですか。
個人としての目標は、この「山の業界」をどうにかしたい。いまの自分の関心はそこにあります。どこに登りたいとかいうより、この「業界」を何とかしたい。
それはどのように問題なのでしょうか
いまは、昔のような「山岳会」というのがなくなってきています。すると、かつて経験を上から下へといろいろ継承してきたものがなくなっている。登山者も歴史や文化のリレーというのがなくなってしまうと、どうやってそれを継承するか、たとえばどこで教えてもらうか、どこを登るかなど、過去の経験が失われると、収拾がつかなくなって、事故を起こすグループが多くなったりと、ちぐはぐになってしまう。だから、「受け皿」をつくりたいのです。言うなれば、ヒマラヤに行きたい人たちばかりでなく、山に登りたいと願う、すべての人たちの受け皿をつくる必要がある。
2018年4月1日にオープンしたばかりの田舎風フレンチの店「ビストロ・トマテ」(0551-26-3880)。父・勝巳さん、母・英津子さん、弟・泰輝さんが切り盛り。

山を愛する人へのアドバイス

何か、安全な登山のためのジンクスとか、お守りなどはあるのですか。
ありません。「安全な登山」はないと思うのです。それが前提ですから。そうして、どこの山に行くにも、よく考えて登る。とにかく、自然を相手にすることですから。
それが先ほどの「業界」をどうにかしたいということに繋がりますね。自然を相手にしているという意識が必要ですね。
ちゃんとわかってやっていればいいのですが、知らない、何も感じていないというのが、いちばん怖いのです。もし、山登りを続けるのなら、そうしたことをちゃんと意識したほうがよいと思うのです。
これから山に登る人たちに、ひとことお願いします。
いろいろ地方などで話しているときによく言うのですが、日本は国土の約7割が山林で、ごく近所に裏山などがいっぱいある「山の国」なのです。 だから、多くの気になる山があるのですが、まずは自分の身近にある「ホームの山」をひとつ持って、そこを大事にすること。そこから発展的なことを考えていただきたいですね。 そこから日本中のいろいろな山に広げていく。まずは身近な山から始めるのです。いきなり有名な山とか、高い山、遠くの山とかではなくて。 富士山とか「百名山」などには、どうしても目が行きがちになるのですが、2~3時間歩くだけでもいっぱい良いところがある。僕には、六甲が「ホームの山」だったし、それがその後に経験を積んでくると、徐々に変わってくるのです。
富士山に250回以上登っていらっしゃることもあるし、一生に一回は登ってみたいという人はたくさんいると思うので、その人たちにアドバイスを。
富士山というのは、特に海抜の低い首都圏に住んでいる人たちには、いきなり負荷がかかることになります。というのは、バスでいきなり標高2000メートルくらいまで上がって、さらに3000メートル以上のところに登ることになるからです。 誰でも登れそうだけれど、じつは大変なことです。そうはいっても、僕は山頂の「ご来光」を見るのは価値があると思っています。 あれほど、ふもとを見下ろせる場所はないですし、やはり、富士山には行ってもらいたい。 また、それが登山のきっかけでもいいですから、ほかの山に続けて登ってほしいです。 初めての人には辛いこともあって、それで登山が嫌になる人もいっぱいいるはずです。 富士山は誰でも登れる印象があるけれど、実際はキツイところ。それに懲りず、そのほかにももっと楽なところがいっぱいあるのだから、ぜひ続けてください。
店のある「アグリーブルむかわ」は、北杜市が経営する宿泊施設も備えた農業体験実習施設。南アルプス登山や観光の拠点でもある。その管理・運営も「経営者」としての大切な仕事。
山梨県北杜市武川町山高3567-212
http://www.agrieable.jp/
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